2017年 08月 20日 ( 1 )

障がい者と思い始めた

最近よくネットで英語と日本語両方で障害者についての又は本人のプログ記事やコラムや動画だったりをよく見る。
英語は読めるおかげで世界の障害者について学べるからとても便利。

やはりこの歳になると真剣に自分の「障害者としての」人生についてを考えることが多くなった。

え?25年も障害とともに生きてきてて今更ぁ!?って思うかもしれないが。

ネットで世界中の障害者について学んでて思うのが、どの人もなんだか障害者らしさがあるっていうか、みんな何かと共通する”障害者らしい特質”ってのがうかがえて、そしてそれに対して第三者的な立場に自分がいることが不思議で不思議で仕方ないのだ。
自分も立派に重度障害者の中でも重度なほうに分類される。それなのに障害者について読んだり見たり聞いたりしてて共感ができないというなんとも奇妙なシチュエーションに立っている。
高慢とか強がりではなくて。


振り返ってみたら、自分はあまり25年間、自分が障害者だと意識したことがなかった。・・・というより、物凄く恵まれていたおかげで、障害を意識する環境にいたことが少なかったのだ。だから物凄く感謝している。

自分は7人兄弟の末っ子として生まれて、自分以外も何人か兄妹が障害者だったおかげで親から特に特別扱いもされなければ健常者の兄妹たちからも障害者扱いされず。いつも周りに親か兄妹か友達がいたおかげで体は動かないことにも不自由に感じず、障害者の兄たちともいつもくだらない話で盛り上がるし、障害が辛いなんて一切話題にしたことがなかった、記憶する限り。

書きながらなんか心に感謝が溢れ出てくる。自分なんかちっぽけな人間が何でこんなに恵まれているのか・・・。


自分は生まれてからずっとクリスチャンで、ずっと毎週日曜日に教会行ってたおかげで、健常者の幼なじみもたくさんいるし、健常者とのかかわりが自然にできる。
中3まで養護学校に行ってたけど、その時も、(ちょっと高慢に聞こえるけど)自分は障害者だなんて感じたことなかった。

高校で普通高行って初めて不便さを少し感じ始めたけど、普通に友達はそれでもけっこーいて、続けて教会の友達とも壁ほぼ無しに関わり続けたので、やはり真剣に障害者として悩まなかった。

そんなこんなで社会性も身につき自分の性格上、友達もたくさんでき、フェイスブックでは友達が1600人くらいいるけどその中の99パーはリアルで友達の人たち。
そして自分は今日も殆ど障害者って意識することなく生活しているが・・・




やはり大人の道を歩むとありとあらゆる方向から障害者ビームを浴びる。

差別は世からは消せないものだ。

なんか上手く行かないことがあると、ふと、「あ、そうだ自分は障害者でした。だからこういう結果になるんか。」と、いう場面に良く遭う。
こんな態度でいると火傷を多々するが、良い面を考えると、障害なんてあってもなくても人間は人間という価値観が身につく。

ちなみにそのせいで、(ちょっとまずいと思うことでもあるが)他の障害者で上で述べたような「障害者らしい」子がいると、その人に”仲間”という意識ではなく、”同情”という、「健常者の障害者に優しい人」のような態度で接してしまうこと。
たまに「障害者同志なのに見下された」や「余計なお節介」と思われてしまうのがすごく落ち込む。
自分は見下してるんじゃなくて、障害の有無にかかわらず、自分は弱いものに歩み寄りたくなる性格なのは私をよく知る友達はみんな知っている。
ただ、確かに自分は障害を意識しなきゃいけないことは承知しはじめた。

自分をこのような環境に維持しつづけてくれている両親には感謝をしきれない。
しかし、両親が元気でいてくれるのもあと数年だろう。

障害を意識しないと、これから身を守れない。




最近は不安がたくさんあるが、それよりも感謝のほうが心を埋め尽くしている。


自分は重い障害を重く感じないけど、でも重い障害のあるおかげでたくさんのことを思い、自分という人間が素晴らしくなっている。

自分が高慢に聞こえないことを願っている。

自慢や人気になることは目的ではなくて、自分がこれを書いたのは、みんなに言いたかった。障害があってもなくても、幸せになることは選べるんだよ、って。

そしてこれを書いて自分はどれだけ感謝というギフトで自分の人生は積み重なられているかを確認したかった。
今、自分のメンタリティーと格闘しているとても大事な時期なんだ。







幸せになれたよ。








そう、これが夜中1時のテンションですww

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by poteto-n-o-b | 2017-08-20 01:02 | Comments(2)